the book-review columns

書評コーナー
Bientôt, Voyage au bout de la nuit ・セリーヌ 「夜の果ての旅」
 数十年ぶりに、「夜の果ての旅」を読み返した。

 セリーヌ(Céline)がブームになる前、19歳だったわたしは、当時絶版で入手困難だった、中央公論社の世界の文学全集の中の一巻、同書を高田馬場の古本屋で見つけた。早速読んだのだったが、正直言って、人生経験の乏しさから、あまり理解できなかったように思う。

 その後、国書刊行会から、セリーヌ全集が出版され始め、猫も杓子もセリーヌという、馬鹿げた流行が始まった。

 セリーヌは、何を望んでいたのだろうか?
 セリーヌの訳者、生田耕作氏は、書評『サドは有罪か』(ボーヴォワール)のなかで、次のように述べている。
「---『ジュリエット』や『ソドムの百二十日』が完全な形で刊行され、大手を振って歩ける場合は二つしか考えられない。サドが描きだす凄まじい地獄絵に震撼させられた読者が、恐怖と嫌悪のあまり、これをたんなる精神錯乱者の白日夢か、それとも一個の「お伽話」として、自己の不安な意識を納得させ、速やかに記憶から抹殺する方向に努力を傾ける場合。いま一つは、「財産と条件との完全平等」の実現を通じて、「強者の権力が弱らせられ」、「空虚な法律」が廃され、ブルジョワ道徳の瞞着を取り去った、「光をあたえられた」世界、すなわちサドが夢見たアナーキーの天国、ロートレアモンが「詩が万人によってつくられる」と歌った未来郷、スティルナーの「唯一者」の受け容れられる共同社会が実現される日である。 サドがもっとも恐れたのは第一の場合であり、その生涯を賭して彼が実現を希望したのは、第二の方向であった。恐らくこのサドの期待の果たされる遠い(?)未来の日まであらゆる国々において(もちろんソヴィエトにおいても)、サドの著作は権力階級の圧迫にさらされ、焚書の憂目にあいつづけるであろう。そして、これこそサドの願うところであり、痛烈な皮肉のひそむところでもあるのだ。—」

 これは、そっくりそのまま、セリーヌの『旅』についてもあてはまるように思われる。
 空前のセリーヌブームであるが、その本質において、第一の場合として。つまり、一個の「お伽話」として、自己の不安な意識を納得させ、書棚にセリーヌの著作を飾って。

 だが、『旅』は、お伽話ではなく、主人公フェルディナン(Ferdinand)の遍歴は、そのまま、作者セリーヌの遍歴でもある。

 書かれたものの無力さと、その敗残の栄光をここまで見せる作品は、全くと言っていいほど、現代文学ではお目にかかれない。

 『敗残の巨人』(ミルトン・ヒンダス)“The Crippled Giant” by Milton Hindusによれば、セリーヌは、その後彼を弾劾した原因となった、反ユダヤ的言辞を、小説のなかには、一切持ちこんでいないと言う。確かに、『旅』には、そのような箇所はない。いわば、セリーヌにとっては、人間というものは救いがたいほど破廉恥で、自分勝手であり、政治的信条などどうでもよくこの小説は書かれている。

 『旅』は、原稿用紙換算で、1280枚になるそうだが、この大著は一貫して、現実世界に対するセリーヌの観察とその絶望的な結果に費やされていると言ってよい。
 途中、主人公はアメリカに行き、フォードモーターの工場で働く。その非人間的な労働を体験したままに自虐的笑いを浮かべて描く。フォードの恥部をさらけ出す作家に、ノーベル財団が賞を授与する訳もない。

 こんなところに、ノーベル賞受賞のいわゆる優等生作家の、絶望的な説得力のなさがある。国内は、大江健三郎を筆頭に、海外においてもしかり。いわば、贅沢三昧の食生活を送っている作家が、言葉は飢餓には無力である、と言ってもなんにも響かない。いっそのこと、今日の夕食はこれこれで実に美味だったと言ったほうが、偽善者臭がなく気持ちいい。

 訳者 生田耕作氏の日本語訳は、志賀直哉の明晰さと、荷風の典雅さを兼ね備えた出色の出来映えであると思う。
- : comments (x) : trackback (x)
Aug.2017
S M T W T F S
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
横 300 pixel 縦 192 pixelです。(ブログの初期設定で設定してください)
横 423 pixelを超えると、表示がくずれる場合があります。