the book-review columns

書評コーナー
大鮃---藤原新也
 朝日新聞の書評で、同書と沢木耕太郎の『春に散る』が取り上げられていた。
春に散るは新聞連載で読み通したので、『大鮃』を読んでみた。

 藤原と沢木は、同時代に、体験の質は違えど優れたノンフィクションを発表してきたので、朝日では並んで論じていたのだと思う。

 大鮃は、一気に読み通すことができた。それなりに、面白かった。

 藤原の小説第一作だという。主人公は、ゲーム中毒になり、精神科医のカウンセリングで、幼少期に死に別れた父が住んだことがある、アイルランドの田舎町目指して、初めての海外ひとり旅に出かけることになる。
 そこで、老人の現地ガイドに伴われて、一応名所と言われているところを巡る。

 ここまでは、ノンフィクションと同じ記述である。その先からが問題であろうか。

 まず、一介の旅行者として名所巡りをするわけであるが、出会う人物があまりに個性的、名所の体験が特殊すぎ、これはあまり上手とは言えないフィクションだな、と感じざるを得なかった。
 ラストは、ある娘との邂逅が余韻をもって描かれ、そこは上手だと思った。沢木のあからさまな叙述より巧みだろう。

 あと、読んでいてひっかかりがあるところは、旅先で体験をするたびに、以前はまり込んでいたゲームの画面のシーンが重ねられることである。旅というのは、私見では非日常の特権的体験で、ゲームを想起するなどありえないと思う。
 もうひとつは、読んでいてLGBT的慰安ともいう安堵感があるのが文学だと、自分は思っているので、露骨に男は男、女性は女性的であらねばというバックグラウンド(前提概念)で書かれると、文学的慰安は吹き飛んでしまうということだ。

 大鮃の映像版という写真集『風のフリュート』を見た。こちらは、藤原的な、いつもの藤原ワールドを楽しませてくれる。やっぱり、写真の技術はスゴイね。
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Spring surrounded with flowers 2017
Cherry Blossom

As the standard Cherry Tree in Yasukuni Shrine

Peony

Collaboration of Plum and Cherry Blossom

Azalea

Azalea with Stela
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The sot-weed factor by J.Barth 酔いどれ草の仲買人
 今回、古本屋で、2冊揃の『酔いどれ草の仲買人』を手に入れ、読んだ。
大学時代に、A Nchor Books Doubledayの原書を読み始めたが、長すぎて、頓挫したもの。集英社の、新・世界の文学に入っているものである。
 その後、1冊本の全集が刊行されたが、これは寝転んで読むわたしの習慣には、向かない。

 アメリカのの千夜一夜が聴こえると、1冊本のコピーは、まさに的を射ている。
主人公 Ebenezer Cookeは、童貞であることを誓い、『イーリアス』ならぬ、メリーランドの叙事詩、『Marylandiadメリーランディアッド』を書くことも誓って、父の所領であるモールデンへと、小さき船で出発するのである。

 17世紀の物語であり、邦訳解説によると、Ebenezer Cookeは、実在した人物とのことであった。わたしは、当時のアメリカ史はよく知らないが、訳者は、物語そのものは、実在した主人公にインスパイアされた、全く架空の物語だと伝えている。
 著者の文学的想像力は、人並みはずれたもので、ただ、驚嘆する他ない。
 途中、『酔いどれ草の仲買人』という、実在の人物の書いた詩篇が地の文章に織り込まれているが、これにしても、バースの草したものの如く映るほど、スムースに全体におさまっている。
 主人公を取り巻く副登場人物たちも、ラブレー風の支離滅裂な体験をとおして、この物語を、アメリカの千夜一夜を立体的なものにしている。
Henry Burlingame-----双子の兄妹の家庭教師ということだが、変幻自在な、しかし、晴れやかな怪物的人物、蝙蝠のもも焼きまで食わせられる。
Joan Toast-----------------処女的娼婦、主人公の妻になるが、豚の飼育係をやらされたり、かわいそうな気もするが、笑いのほうが先に来てしまう。
Anna Cooke---------------双子の妹。従順な(in control)魅力の女性。兄を追って、モールデンまで来るが、Burlingameに恋している。これも、散々な旅を経る。

 この作品は、文学作品を堪能するのを、あたかも豪華なバーベキューを平らげるように味わわせてくれる。
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マルセル・プルーストの作品の構造 井上究一郎 La structure de l’oeuvre de Marcel Proust par K.Inoue
 この研究論文は、プルースト、とりわけ、『失われた時を求めて』の研究には不可欠のものである。
 私は、この書籍の入手が困難であったこともあって、今回まで読む機会がなかった。

 読了して驚いたことが、ふたつあった。
まず、プルーストの『失われた』の作品形成の胚種が、多くの部分で、ジェラール・ド・ネルヴァルから帰せられていること(Sylvieは当然のこととして、Les Chimeresまでもプルーストの作品の胚種として論じられている)。
第2に、胚種としてではないが、作品の哲学的存在価値を、かのMallarméのLe Livreの、マラルメが終に果たせなかった、時を越えての実現として、結論付けていることであった。

 そして、Marie Nordlingerへのインタビューなど、マルセルの直の知己の証言も少なからず収録されており、関係者たちが他界してしまった現在となっては、研究書ではうかがい知れないドキュメントとしての価値も見逃せないものとなっている。

 この書籍を購入した、駿河台下の風光書房さんには、他の書籍でもお世話になった。
少し前、閉店されたそうです。書店のなかで、棚を眺めていた自分と、書店主さんの衣擦れのように静かな、書物を整理する音がしていた、窓からは木漏れ日がさしていた、そんな時間があったことが夢のようです。
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いじめられて、死を考えている君へ
復讐しましょう。
なぜ、ひとりで死ぬ?

いじめは、君が余りに真実だから、してるんですよ。
そいつらは、本当は憶病者なんだよ。
ターゲットになる者がいないと、怖いんだよ。

僕は、高校時代にいじめられた経験がある。ただ、いじめたのはひとりで、中退した。復讐は、一応果たした感じだと思う。
君のほうが、全然たいへんだと思う。

ひとりで、あの世に行くな。
死ぬ気なら、何だってできるだろ。

本当にいじめが存在するなら、それは、憲法が保障する幸福追求の権利の侵害で、復讐は正当防衛と言える。記録に残しなさい。

僕だって、こんな記事で捕まらないように、弁護士と相談しながら書いている。学校も、警察もあてにならないよ。
今の日本が、加害者天国なんだ。殺人事件の裁判を見れば分かると思う。

ただ、復讐は不特定多数にやったら絶対ダメだよ。いじめている奴らにやりなさい。

このコーナーは書評なので、君に一冊の書物を勧める。「試行錯誤」アントニー・バークリイ著、鮎川信夫訳。
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En Marge de Zen Toyo Kaido (全東洋街道)by S.Fujiwara

虹の黒部ダム Kurobe Dam in the rainbow


立山連峰 Tateyama Kurobe Alpine route


真性寺 Monkey sculpture


不動寺 Hudo Myouou


道光寺 Jizo

these photographs are dedicated to Mr.Shinya Fujiwara at the end of “Zen Toyo Kaido"
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Essai sur le commentaire de “Glas” par J.Derrida
Numéro premier

I am reading “Glas” by Jacques Derrida.

From now, I will try comments step by step.

At the moment, I read only 33 pages. But after one year, I intend to finish the reading of the text, terminating this comments.

—This monster book has started the collapse of Blumenreligion, passage of Tierreligion that is destructive written by G.W.F. Hegel. The theme concerns the origin as a whole meaning of the word.
Blumenreligion is also contingent with die Unschuld; L’Immaculée Conception has already collapsed from the beginning, might be.
The beginning, there was l’amour.
Let’s have a look Littré.
Amour: Sentiment d’affection d’un sexe pour l’autre.

However, we must construct the community(Sittlichkeit) by our morality(Modalität) that are our reason.
That band our liberty. That band Phallus, becomes la copulation d’un syllogisme, also leads the text of Jean Genet through les cadavres de mots.

Divine, elle est dans la cellule, her phallus is represented by the expression “cercueil vertical”, that metaphor ruin l’idéalité=substance de la signification. Derrida suppose que la rhétorique est l’anéantissement de l’existence qui indique à couper la tête de Phallus, castration.

Exemple: cercueil vertical est le phallus d’elle, aussi le catafalque qui s’aient allonge, même aussi en boîte d’allumettes Jean glissa dans son pantalon.
Cadavre étaient la mort de Divene, Fleurs de Notre-Dame, guillotinée. She was enveloped auprès d’elle en fleurs pourries.
Glas résonne, il est aussi une sorte de lait empoisonné, Sperme.
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支倉事件-------甲賀三郎
 推理小説を、夜就寝前にいつも読んでいる。
世界推理小説全集80巻を1年くらい前に入手したので、海外ものが多かったが、
このたび、久々に日本の、それも昔の推理小説の名作と言われている、「支倉事件」を読んだ。
 これは、読了するのにかなりの努力が要った。
 ぐんぐん読める、Japanese Dorothy Sayersこと、宮部みゆき氏とは大違いである。
努力が必要だった理由は、推理ものと言っても殺人事件は主筋ではなく、主人公の支倉の執拗な性格、執念深い行動の記述にほとんどのページが充てられていることである。
 最初に、聖書の窃盗騒ぎがあって、犯人が牧師の支倉だということになり、支倉が逃亡してから、これは面白そうだとなった。そして、神楽坂署の刑事たちの、支倉を捕まえるための必死の捜査が始まる。このへんまでは、何とか読めた。
 そして、いよいよ支倉が捕縛され、取り調べで、罪を自白する。
 これで、物語は終わりかと思った。通常の推理小説はここで終わりであろう。
 しかし、これまでは序章に過ぎなかった!!
 この後、支倉が自白を翻し、断固として冤罪を訴えて、裁判での罵詈雑言をまじえた無実訴えの記述が延々と続くのである。一向に物語が進展せず、いささか閉口・・・

 あとがきを読むと、この物語は、実際の有名な疑獄事件を題材にしているそうだ。
主人公の往生際の悪さを書きたかったのかな?
 性悪な奴ほど、往生際が悪いようだ。
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Spring has come in Japan
A l'ombre de photographies en fleurs


Plum Tree in Blossoms



Native Species of Orchid



Fist of flowers



Bic Husky Boy 'Romeo'



Hyacinth



Cherry Tree in Blossoms

These photographs were taken by PENTAX-LX film camera, using positive color reversal film as iso 50, developed through a film scanner. Also, using a light meter.
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Bientôt, Voyage au bout de la nuit ・セリーヌ 「夜の果ての旅」
 数十年ぶりに、「夜の果ての旅」を読み返した。

 セリーヌ(Céline)がブームになる前、19歳だったわたしは、当時絶版で入手困難だった、中央公論社の世界の文学全集の中の一巻、同書を高田馬場の古本屋で見つけた。早速読んだのだったが、正直言って、人生経験の乏しさから、あまり理解できなかったように思う。

 その後、国書刊行会から、セリーヌ全集が出版され始め、猫も杓子もセリーヌという、馬鹿げた流行が始まった。

 セリーヌは、何を望んでいたのだろうか?
 セリーヌの訳者、生田耕作氏は、書評『サドは有罪か』(ボーヴォワール)のなかで、次のように述べている。
「---『ジュリエット』や『ソドムの百二十日』が完全な形で刊行され、大手を振って歩ける場合は二つしか考えられない。サドが描きだす凄まじい地獄絵に震撼させられた読者が、恐怖と嫌悪のあまり、これをたんなる精神錯乱者の白日夢か、それとも一個の「お伽話」として、自己の不安な意識を納得させ、速やかに記憶から抹殺する方向に努力を傾ける場合。いま一つは、「財産と条件との完全平等」の実現を通じて、「強者の権力が弱らせられ」、「空虚な法律」が廃され、ブルジョワ道徳の瞞着を取り去った、「光をあたえられた」世界、すなわちサドが夢見たアナーキーの天国、ロートレアモンが「詩が万人によってつくられる」と歌った未来郷、スティルナーの「唯一者」の受け容れられる共同社会が実現される日である。 サドがもっとも恐れたのは第一の場合であり、その生涯を賭して彼が実現を希望したのは、第二の方向であった。恐らくこのサドの期待の果たされる遠い(?)未来の日まであらゆる国々において(もちろんソヴィエトにおいても)、サドの著作は権力階級の圧迫にさらされ、焚書の憂目にあいつづけるであろう。そして、これこそサドの願うところであり、痛烈な皮肉のひそむところでもあるのだ。—」

 これは、そっくりそのまま、セリーヌの『旅』についてもあてはまるように思われる。
 空前のセリーヌブームであるが、その本質において、第一の場合として。つまり、一個の「お伽話」として、自己の不安な意識を納得させ、書棚にセリーヌの著作を飾って。

 だが、『旅』は、お伽話ではなく、主人公フェルディナン(Ferdinand)の遍歴は、そのまま、作者セリーヌの遍歴でもある。

 書かれたものの無力さと、その敗残の栄光をここまで見せる作品は、全くと言っていいほど、現代文学ではお目にかかれない。

 『敗残の巨人』(ミルトン・ヒンダス)“The Crippled Giant” by Milton Hindusによれば、セリーヌは、その後彼を弾劾した原因となった、反ユダヤ的言辞を、小説のなかには、一切持ちこんでいないと言う。確かに、『旅』には、そのような箇所はない。いわば、セリーヌにとっては、人間というものは救いがたいほど破廉恥で、自分勝手であり、政治的信条などどうでもよくこの小説は書かれている。

 『旅』は、原稿用紙換算で、1280枚になるそうだが、この大著は一貫して、現実世界に対するセリーヌの観察とその絶望的な結果に費やされていると言ってよい。
 途中、主人公はアメリカに行き、フォードモーターの工場で働く。その非人間的な労働を体験したままに自虐的笑いを浮かべて描く。フォードの恥部をさらけ出す作家に、ノーベル財団が賞を授与する訳もない。

 こんなところに、ノーベル賞受賞のいわゆる優等生作家の、絶望的な説得力のなさがある。国内は、大江健三郎を筆頭に、海外においてもしかり。いわば、贅沢三昧の食生活を送っている作家が、言葉は飢餓には無力である、と言ってもなんにも響かない。いっそのこと、今日の夕食はこれこれで実に美味だったと言ったほうが、偽善者臭がなく気持ちいい。

 訳者 生田耕作氏の日本語訳は、志賀直哉の明晰さと、荷風の典雅さを兼ね備えた出色の出来映えであると思う。
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Jun.2017
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